松山城

登り石垣/北側

2011.2.20 sun

1430-1600

晴れ

今日の主目的は、取り壊されてほとんどないと言う、登り石垣/北側の探索

今日も、古町口登城道より登りますが、登り始めて直ぐ登城道から外れ、山中へ
少年の頃良く遊んだアドベンチャーコースを登ります


急坂の連続ですが変化に飛んだ面白いコースです


登り詰めるとちょっと開けた小高い丘に出ます


そこから続く平坦な山道を進むと登城道に合流し、乾門へ到着です



今日は、乾門手前にある小高い石垣の右手へ入り、ここから登り石垣の探索へ


小高い石垣を回り込むように進むと、見事な石垣が出現します



この辺りからが登り石垣の始まりだと思います



更にその石垣は下方へ続いています


落ち葉に覆われた急斜面を滑るようにして先へ進むと

そこで石垣はなくなっていました


そこには石垣の残骸が僅かに残っていて、石垣が続いていた事が良く分かります


更に下方は、もの凄い急斜面のため探索を断念しましたが

恐らくここからずーと石垣が続いていたと思われます


何故、取り壊されたのか、取り壊す必要があったのか、残念です


登り石垣を後に、このまま石垣下を進みます


見事な屏風折れの石垣と呼ばれる高い石垣を見上げながら





紅梅が綺麗に咲いていました





太鼓櫓下から観光登城道へ合流します

こちら側には立入禁止の表示がありました



黒門口登城道へ降りて、登り石垣の下端を探索しようと思ったのですが

今日は時間があまりないので次回へ持ち越しとし

ここから本丸広場へ向かい写真を撮りながら古町登城道から帰ることにしました

太鼓櫓下付近から


戸無門付近から


筒井門付近から

雪に覆われた石鎚山系遠望



本丸広場より





















乾櫓下付近より




登り石垣とは(松山市HPより)

松山城には、堀之内(三之丸)からも見ることができる「登り石垣」という、

全国的にも珍しい貴重な石垣があります。

「登り石垣」は、中国にある「万里の長城」と同じく、山腹から侵入しようとする敵を阻止する

目的のため、ふもとの館と山頂の天守を、山の斜面を登る2本の石垣で連結させたもので、

豊臣秀吉の朝鮮出兵の際、日本遠征軍の倭城築城で採られた防備手法と言われています。

水軍の将であった加藤嘉明公は、朝鮮出兵で倭城(安骨浦城)を拠点としており、

その経験から松山城築城に際しても、「登り石垣」をふもとの二之丸と標高132mの

本丸間の防備として用いたものと考えられています。

松山城の「登り石垣」は、南側の部分はほぼ完璧な形で残っていますが、

残念ながら北側は一部分しか残っていません。古図には完全な形で描かれていることから、

幕末以降に何らかの理由で、取り壊わされたものと思われます。

国内の現存12天守の城郭では、松山城のほか、彦根城だけにその存在が確認されており、

当時の東洋三国(日本・朝鮮半島・中国)の築城交流史をうかがえる重要な資料として評価されています。

(追伸:「登り石垣」そのものを登ることはできません。見るためには県庁裏登城道が適しています。)

登り石垣/南側の探索レポはここをクリックしてご覧下さい


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